やらねばならない現実があるからだ

死にたい、と私はよく言うし書く。死 と言う言葉を使うべきではないと言われたらその場をそっと離れるだけです。

自殺して、遺されたひとのきもちは、そう聞かれても、そうですね、としか言えない。私の大好きな母親がハイターを飲んで自殺を図ったことがあった。その時の私はキャパオーバーで頭で何も考えられなかった。嘘だ、、という言葉しか出てこない。母親が死ぬかもしれないというショックと同じくらい、母親が死にたいと思っていることにショックを受けた。

私は闘病中の母親に、どうして頑張るのか聞いたことがある。母はとてもショックを受け、お母さんがいなくなってもいいの?と聞いてきた。私はもう胸がいっぱいいっぱいになった。苦しそうなお母さんをみるのがとてもつらかった。だけど、死 という言葉に近い言葉がでてくるなんて思ってなくて。

そこからなんとなく、命に関わることだとは認識した気がする。その何年かあとかわからないけれど、母親に「万が一のことがあったら」と言われたことがある。その言葉は死ぬことをいっているんだと、すぐに分かって、とても泣きついた。

そんなのいやだと思った。

でも、どうして頑張るの?と聞いた時の気持ちが消えることはなかった。どうしても、苦しんでいるお母さんをみるのがつらかった。わたしだったら、そんなつらい治療は続けられない。私だったら病気に負けることを選ぶだろうと、安易に考えていた。その頃は、治療をしない=死であることをあんまり分かってなかった。でも分かってからも、お願いだからぜったい死なないでなんて、思ったけど、思えなかった。ずっと一緒にいたかった。でも苦しまないでほしかった。私はバカだった。それでも、母さんは最後まで私と一緒にいてくれることを選んでくれたんでしょう。だから最後まで諦めないで病気と闘ったんだよね。ありがとう。

話がそれたけれど、母さんが死のうとしたこと、あとになって、母さんと笑い話にしたの覚えてる。遺されるひとのきもち、まったくわからなくはない。死にたいのは、治らない。