誕生日にポールジョーの猫のポーチをもらった次の日くらいに猫が事故に遭う瞬間に遭遇してしまった。偶然にもそのポーチをくれた友達と電話しながら歩いていたんだけど、助けなきゃと思って近づくもののその友達にそれで病気持って帰って自分の猫にうつったらどうすんの、お金かかるよ。もうだめだから近づかないで。かわいそうとかも思うな、とりつかれるよ、と至極真っ当なことを言われ、動揺していたしとても怖かったので私はそのまま帰ってしまった。至極真っ当なのだがその言葉にとてつもない恐怖を感じたのは、その言葉の中にも端にも、人間味を感じなかったからだった。人間味、は何をもって人間味とするか、それは人によって違うが、私にとっては、偽善と同情、非力ゆえの心の強さ、罪悪感、そういう心の崩れやすく柔らかいどうしようもない豆腐のような部分が見えると、人間味があるなと思う。私はきっと救えるかもしれないという希望と、少しの罪悪感から行動しようとした。昔拾った死にそうな猫が1週間くらいで死んだ時、苦痛を長引かせてしまった、あのまま死なせておけばと思った。人間は同じ間違いを繰り返す。

だけど私は帰ってからやはり後悔した。すぐ近くにはコンビニがあり、ゴム手袋だって売ってたかもしれない、救えなくとももっと端によせるとか、できたかもしれない。

それと同時にそもそも見捨てることに何の罪悪感も抱かない友人が猫に対し可愛いという感情を持てるのかという素朴な疑問が浮かんだ。かわいいでしょうと言って君はくれたけど、何かに対して可愛いなんて君は思えるの?そう思うとこの子のこと急につまらないひとだなと思うようになった。私に何かと連絡をよこしたり遊ぼうとか言ってくるけど、ふと、私のことをいなくていい存在だと言ってきたり、君って一貫性がないよね。本来私はそういう紫色なひとがだいすきだが、この子にははぜか人としてあまり惹かれない。

その子のかわいいでしょうを思い出すと急にそのポーチがひどく怖いものに見えた。それと同時にあの猫のことを思い出すのだ。